
今日は利用者さんではなく、その隣にいる人の話を書いてみたいと思います。
ご家族の話です。
在宅支援をしていると利用者さんご本人と同じくらい、時にはそれ以上に気になる人がいます。
それが、ご家族です。
支援の場面では利用者さん中心で考えることが多いです。
もちろん、それは大切です。
でも現場にいると利用者さんだけ見ていても支援が進まないことがあります。
利用者さんの状態は落ち着いているのに、家族の方が限界に近づいている。
そんな場面があります。
しかも、その限界って意外と静かです。
☑ 怒るわけでもない
☑ 泣くわけでもない
☑ 助けてと言うわけでもない
だから見落としやすい。
介護って、ある日突然始まるように見えます。
「倒れた」
「退院した」
「認知症が進んだ」
そういう出来事は分かりやすい。
でも実際の介護って、少し違います。
最初は病院の付き添いだけ、買い物だけ、送迎だけ、薬の管理だけ、そのくらいです。
だから家族も思います。
「これくらいなら大丈夫」
でも生活って静かに変わります。
▶ 通院が増える
▶予定を調整する
▶仕事を休む
▶食事を作る
▶夜中に起きる
▶役所対応
▶お金の管理
少しずつ積み重なる。
そしてある日、生活の真ん中に介護があります。
でも不思議なことに家族自身は気づいていないことがあります。
介護している感覚じゃない。
生活になっている。
だから助けを求めません。
以前、80代のご主人が奥様を介護しているケースがありました。
奥様は認知症があり、ご主人も腰痛が強い方でした。
話を聞くと、
● 夜中は何回も起きる
● 趣味はやめた
● 病院も減らした
● 散歩もしなくなった。
でも、ご本人は笑って言うんです。
💬「私しかいないから」
強い言葉で愛情もあります。
責任感もあります。
でも、少し話を聞いていくと違う景色が見えてきます。
続けているように見えて、実際は少しずつ自分の生活を削りながら続けていることがあります。
自分の時間、健康、楽しみ(趣味)、人とのつながり。
一つひとつは小さくても、その積み重ねで全部少しずつ減らして続けている。
ここって、外から見ると気づきづらい。
本人も当たり前になっている、だから難しい、、、
ここ、支援していると忘れそうになります。
家族って介護者じゃない。
本当は自分の人生があります。
でも介護が始まると、その人自身が少しずつ見えなくなることがあります。
特に最近増えているのが、
▶働きながら介護する方
▶子育てと介護が重なる方
▶遠方から支援している方
▶ヤングケアラーのように家庭の役割を早く背負う方。
みんな頑張ります。
でも、その頑張りって外から見えづらい。
だから余計に苦しい。
現場で時々聞く言葉があります。
💬「家族なんだから」
悪意はありません。
でも、この言葉って少し強い。
「家族なんだから頑張る」「家族なんだから休まない」「家族なんだから優先する」
こうやって続けていくと介護より先に生活が壊れることがあります。
利用者さんに優しくできない自分を責める。
ここまで来ると家族も支援が必要です。
ケアマネってサービス調整だけじゃない。
家族の罪悪感をほどく仕事でもある。
例えば、ご家族に伝えることがあります。
「週に2回ショート使いませんか」
すると返ってきます。
「でも、かわいそうですよね」
ここで伝えます。
「休むことは見捨てることじゃないです」
「長く暮らすための作戦です」
「あなたが倒れる方が心配です」
すると、涙を流される方がいます。
その涙って疲れじゃない。
許可が出た涙です。
「休んでいい」「頼っていい」「全部やらなくていい」
そう言われたかった。
ここで少し空気が変わることがあります。
訪問看護って処置のイメージが強いかもしれません。
もちろん、それもあります。
でも実際は違います。
すると家族が少し力を抜く。
💬「誰かと話せて楽でした」
💬「少し安心しました」
こういう言葉、意外と多いです。
看護師が来る時間って利用者さんを見る時間でもあるけど、家族が介護者を少し休む時間でもある。これも支援です。
在宅支援って、利用者さんだけを見る仕事じゃない。
✅家族を見る
✅生活を見る
✅未来を見る
全部含めて支援です。
だから、介護が誰か一人の犠牲の上に成り立っているなら。
★ 少し作戦を変えてもいい
★ 休んでもいい
★ 頼ってもいい
★ 任せてもいい
私たち千葉市若葉区の訪問看護ステーション(あみ訪問看護ステーション)も利用者さんだけではなく、その隣で静かに頑張っている家族も支えたいと思っています。
もし今、家族支援で迷っている。
どこまで介入していいか悩んでいる。
そんなケースがあるなら、一人で抱えなくて大丈夫です。
利用者さんが家で暮ら続けるために、まず家族が家族でいられること。
その支援も立派な在宅支援だと思っています。